明治時代より
賑わう歴史生きづく宿
環翠楼ヒストリー
国内外の多くの文化人や
政治家が定宿とした環翠楼。
皇女和宮様、天璋院様、伊藤博文から夏目漱石や
島崎藤村をはじめとする文学者まで、
この場所を愛した人々とのご縁が
環翠楼の歴史です。
伊藤博文翁の命名による
「環翠楼」の屋号
遊興が盛んになった明治の末頃、湯本・塔之沢・宮ノ下・堂ヶ島・底倉・木賀・芦之湯の箱根七湯(箱根の代表的な湯治場)はたいへんな賑わいでした。その中でも、多数の旅館が軒を連ねる塔ノ沢温泉は、とくに人気が高かったと伝えられます。この時期に当館を訪れた人物のなかでも、とくにご縁が深かったのが、幕末志士の一人であり日本の初代内閣総理大臣も務めた伊藤博文でした。
博文は当館を定宿として度々訪れ、大広間で酒宴を催しました。実は、当時の“元湯鈴木”という名称に加え、“環翠楼”という新たな屋号を贈ったのも博文だったのです。伊藤博文が当時の楼主である鈴木善左衛門に贈った漢詩「勝驪山 下翠雲隅 環翠楼頭翠色開 来倚翠欄旦呼酒 翠巒影落掌中杯」のなかに表記された「環・翠・楼」の三文字がその名の由来とされます。雄大なる山々の緑色が映える楼閣のイメージが、その三文字の中に込められています。
この博文の作による漢詩の中に出てくる“勝驪山”というのは、古くから用いられてきた塔ノ沢のもうひとつの呼び名でした。かつて水戸光圀とともに塔ノ沢を訪れた儒学者の朱舜水は、この土地の美しさと泉質のよさに感動し、明代の中国で最上の温泉地であり、歴代皇帝の別荘地でもあった驪山にも勝るという意味で“勝驪山”(しょうりざん)と名付けました。以来、“勝驪山”は塔ノ沢の代名詞となったのです。
明治28年(1895)に、訪日中のロシア皇帝ニコライが滋賀県の大津町で斬りつけられる、日本中を震撼させる「大津事件」が起こります。その一報を博文が聞いた場所も、環翠楼での宴席だったとのことです。
初代内閣総理大臣
伊藤博文
当時としては珍しい団体客を収容できる大型旅館として賑わった大正時代の環翠楼の様子
伊藤博文の揮毫による「環翠楼」の書
静寛院宮 和宮さまと元湯
箱根七湯と将軍家とのご縁が育まれた背景には、御汲湯(献上湯)の慣例がありました。江戸時代の正保元年(1644)から宝永三年(1706)にかけて、この地域の温泉を湯樽に詰め、箱根山を下り江戸城まで遠路運搬された記録が残されています。
元湯と将軍家との直接的なご縁は、明治十年(1877)に静寛院宮 和宮さまが病気療養のためにご登楼されたことが始まりでした。当館に長期滞在された和宮さまは、自ら村の子供達を館内に招き、お菓子をふるまわれるなど、村人と親交を深められたと伝えられます。
当時の早川は現在よりも急流で、川音も大きかったため、当時の楼主で塔ノ沢村の戸長でもあった中田暢平が主導し、川に流れ止めの柵(しがらみ)を掛け、水流を和らげる工夫をしました。この行いに和宮さまはとても喜ばれ、労いの歌会を開催されたという記録があります。
その後、容態が急変され、和宮さまはこの塔ノ沢の地で薨去されます。中田は和宮さまの御心を生かそうと、慰霊の想いを込めて水勢を調節する塔之沢隧道を開設し、いまもなお早川は穏やかな流れを保っています。
江戸時代
最後の皇女
静寛
院宮 和宮さま
和宮さまゆかりの調度品(当館所有)
三つ葉葵の紋が印されている
和宮さまより「行人過橋」の題を出され、楼主中田暢平が詠んだ歌を勝安房(勝海舟)に筆記を依頼して刻んだ歌碑
「行人過橋」
月影のかかるはしとも
しらすしてよをいとやすく
ゆく人やたれ
― 明治丁丑のとし晩秋応乞 勝安房書
君が齢 とどめかねたる 早川の
水の流れも うらめしきかな
― 元湯に訪れた天璋院さまが
亡き和宮さまを偲んで残された句
箱根南麓に
開湯して四百年、
早川渓流沿いの温泉宿
環翠楼がある塔ノ沢温泉は、箱根七湯のひとつに数えられる湯場であり、開湯以来400年にわたって旅客で賑わってきました。
地名の由来は、その昔、小塔に収められた仏舎利が近隣の阿弥陀寺で発見されたことから、この辺り一帯を「塔ノ沢」と呼ぶようになったそうです。この阿弥陀寺は、木食僧の弾誓上人が開山した寺であり、アジサイの名所としても知られています。
この地で温泉が発見されたのは慶長9年(1604)江戸時代の最初期のことです。
弾誓上人が、箱根連山の一角(現在の塔ノ峰)の山中で修行をしていた時分、休養のために下山した折に、早川の河原に温泉が湧いているのを発見したのがはじまりとされます。以来、塔ノ沢の地は箱根の南麓に位置する代表的な温泉地として栄えてきました。
塔ノ沢の名前の由来でもあり、温泉地としてのルーツにもまつわる阿弥陀寺は、元湯で生涯を終えられた和宮さまの御霊が眠る香華院(菩提寺)でもあります。
環翠楼に宿泊される際に、阿弥陀寺をあわせて訪ね、亡き和宮さまの面影をめぐる旅程なども、この塔ノ沢の地でしかできない体験です。
安藤広重「箱根七湯図会 塔ノ沢」嘉永5年(1852)
橋を渡ってすぐ左手にある建物が”元湯”(現在の環翠楼)
箱根町立郷土資料館所蔵
阿育王山放光明律院 阿弥陀寺
明治時代の塔ノ沢を描いた図。左側にある木造の建物が当時の環翠楼
水戸藩 第2代藩主 水戸光圀
水戸藩 第2代藩主
水戸光圀
小野湖山(幕末明治期の志士・漢詩人)が残した記録によると、環翠楼の前身である「元湯」に水戸光圀公が明朝の使者朱舜水とともに宿泊したという記録がある。時期は不明だが、箱根塔ノ沢が湯治場として開湯した直後(17世紀初頭)ではないかと見られる。
中国建国の父 孫文
中国建国の父
孫文
辛亥革命(1911)を達成した直後、中国から日本へと亡命していた時期に、環翠楼を定宿としていた。同時代人としては、同じく清朝の追っ手から逃れ亡命していた梁啓超も登楼した記録がある。
清朝末期の政治家 李鴻章
清朝末期の政治家
李鴻章
中国側の代表(大統領)として、日清戦争後の講和条約を結ぶために来日した際に、環翠楼に登楼。宿泊中に直筆の書などをしたためた。(書の現物は環翠楼が所蔵)
第13代将軍 御台所天璋院(篤姫)
第13代将軍 御台所
天璋院(篤姫)
「和宮終焉の地となった環翠楼に行きたい」と発願され、明治13年(1880)頃に登楼。流れる早川を眺めながら、亡き和宮を想い号泣されたと言われている。
日本海軍元帥 東郷平八郎
日本海軍元帥
東郷平八郎
日清日露戦争も落ちついた明治38年(1905)頃、桂太郎、東郷平八郎はじめ当時の海軍幹部が数多く登楼。
大相撲力士 大砲万右エ門
大相撲力士
大砲万右エ門
明治中期を代表する人気力士。明治37年(1904)に登楼。楼主の鈴木善左衛門と意気投合し、以後定宿とする。縁戚の印として、本館に手形を寄贈された。
児童文学者 巌谷小波
児童文学者
巌谷小波
明治45年(1912)パラチフス治癒後に湯治のために登楼。これが縁となり楼主の梅村美誠と縁戚になる。後に関東大震災遭難者追悼碑の碑文(俳句)を楼主とともに創作。
文豪 夏目漱石
文豪
夏目漱石
明治日本を代表する文学者。明治23年(1890)に登楼。同時代の文化人としては、島崎藤村、長三州らもほぼ同じ頃に登楼したと伝えられる。
文豪 菊池寛
文豪
菊池寛
関東大震災の直後となる大正12年(1923)頃、徳田秋声、久米正雄、久保田万太郎ら当時の文学者とともに、環翠楼で雑誌「新潮」の新作合評会を開催する。
環翠楼 第二代目楼主、梅村美誠と当時の関係者
大正末頃の環翠楼
接客のために訪れた箱根の芸妓さん。大広間での宴会時には欠かせない役割を担った。(大正末期頃)
日舞の上演風景。旅館であると同時に、この塔ノ沢地域の文化サロンの役割も担った。
現在の建物の建設風景。近在の棟梁に呼びかけて試験を行い、選りすぐりの大工を集めて建造。
現在の建物が完成した直後の風景。
慶長19年(1614)─明治17年(1884)
慶長19年(1614) | 箱根塔ノ沢に湯治場として開湯する。 当時の名は「元湯」小野湖山(幕末明治期の志士、漢詩人)の書に水戸光圀公登楼の記録があるが何年かは定かではない。 |
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元和4年(1618) | 箱根宿が設立。この時代は滞在の湯治客のみとなっており現在の1泊2食などの一夜湯治客は禁止。 |
元和5年(1619) | 箱根関所を置く。 |
寛永19年(1644) | 皇室や将軍への献上湯が始まる。 |
延宝8年(1680) | 箱根山中の東海道に石畳を敷く。 |
文化2年(1805) | 温泉の一夜湯治が公認される。(現代の1泊2食が許されるようになる) |
文政9年(1826) | オランダ通商使節のシーボルトが箱根を視察。箱根の動植物を採取し自然に触れ、箱根細工に感嘆する。 |
慶応4年(1868) | 箱根戌辰戦争起こる、箱根関所より湯本山崎で戦う。 |
明治6年(1873) | 福沢諭吉翁が講演の中で当時の道路事情についてふれ、未整備だった私道(現、国道一号線)を当館主を含めた地元有志たちの手により整備。 |
明治10年(1877) | 静寛院宮 和宮様が病気療養のため環翠楼へ登楼。環翠楼に村の子供達を招き菓子などふるまわれ村人と親交を深められる。同年当館にて身罷られた。 |
明治13年(1880) | 篤姫が和宮終焉の地となった元湯に行きたいと登楼。流れる早川を眺めながら号泣されたと言われている。 「君が齢 とどめかねたる 早川の 水の流れも うらめしきかな」元湯で、その時の心情を句にされ残されています。 |
明治16年(1883) | 静寛院宮 和宮様が身罷られた後、7回忌に間に合わせるため元湯当主と勝海舟が「静寛院宮に奉る歌」として碑に残す。 「月影のかかるはしとも しらすして よをいとやすく ゆく人やたれ」 「静寛院宮の御たひやとりの折 行人過橋といへる御題給ハりし時よみて奉りぬ」早川の遊歩道に現在もひっそりと建つ。 |
明治17年(1884) | 環翠楼改装工事。このときの名は「元湯鈴木」 |
明治23年(1890)─昭和31年(1956)
明治23年(1890) | 伊藤博文翁登楼。「環翠楼」の名前をいただき以後、定宿とされる。同年夏、夏目漱石翁が登楼。長三州翁登楼の際に書を数多く残され定宿とされる。 |
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明治24年(1891) | ロシア最後の皇帝ニコライ皇帝が斬りつけられる。伊藤博文翁、環翠楼での宴の最中に伝達を受ける。「大津事件」 |
明治28年(1895) | 日清戦争後講和条約を結ぶため李鴻章翁(当時の中国の大統領)が来日し環翠楼へ宿泊。 |
明治37年(1904) | 明治中期の江戸相撲を飾った大関大砲萬右衛門力士登楼。その際、環翠楼当主と縁戚になり、定宿として手形を頂戴する。 |
明治38年(1905) | 桂太郎翁(日露戦争時の総理大臣)、東郷平八郎(連合艦隊指令長官)など歴史上人物が多く登楼。 |
明治44年(1911) | 中国の革命家、孫文翁が中国より日本へ亡命。環翠楼を定宿とする。 |
明治45年(1912) | 巌谷小波翁(文学者)パラチフス治癒後に登楼で湯治される。 これが縁で当館主と縁戚になり後の関東大震災遭難者追悼碑の碑文(俳句)と書を引き受ける。 |
大正5年(1916) | NCR製キャッシュレジスターを購入。当時はアメリカ合衆国デートン市に工場があり船便で運ぶ。現在も帳場で現役使用中。 |
大正8年(1919) | 環翠楼建設、箱根登山鉄道開通。出山の隧道を掘削中に湧き出た水を環翠楼で飲料水として利用。 現在も飲料水や食事などで沢の湧き水を使用中。 |
大正12年(1923) | 関東大震災。箱根も大きな災害を受け環翠楼も一部崩壊。菊池寛、徳田秋声、久米正雄、久保田万太郎ら環翠楼で「新潮」の新作合評会をする。 |
大正13年(1924) | 環翠楼改築工事(現在の建物) |
昭和11年(1936) | 箱根 国立公園に指定される。 |
昭和17年(1942) | 第2次世界大戦が始まり旅館業一時中止。その間、傷痍軍人の療養所となる。 |
昭和20年(1945) | 終戦後、旅館業再開。 |
昭和30年(1955) | 秩父宮様、高松宮様登楼。その後定宿とされる。 |
昭和31年(1956) | 箱根全山5町が合併し「箱根町」になる。 |